がんばってかくぞ日記2
一.
私は誰にでもできる仕事をしている、誰にでもできない仕事というのは数多くあり、それこそ、昨日話していた日々の積み重ねや鍛錬が必要になるものが主だと思っている
飲食店のアルバイトは忙しくなると本当に尊厳が削がれる、誰にでもできる仕事をするしかない、ロボットの代用品ということがとてもわかる
素早い動作と的確な判断が最重要されるホールスタッフで、よくこんな、ぎりぎり健常者のふちに立っている人間が主力となって働いてるよな
ぎりぎり健常者のふちに立っていることが武器となる仕事に就けない、誰にでもできる仕事をするしかない、凡庸人間ということをもっと自覚しろ
他のことにリソースを割く、の、他のこと、がないから、私は誰にでも出来る仕事をして安銭を稼ぐのみ、凡庸な人間に残された道はロボになることのみ
何も出来ない人間は思念を捨てろ
完璧な慣れと惰性のみで労働をしているという点において、接客業もレーン作業も全く同じだ
私は常に誇りが欲しいと思っている
その誇りが、私自身のアイデンティティに帰属する日はいつ来るのだろうか、そしてその日に、私はちゃんと劣等感から解放されるのだろうか
二.
優しくされることに慣れていないと常に言い続け、そのせいで嫌な思い出もたくさんできてしまったが、それって、目に見える優しさのみを受け取っているからじゃないのか
わかりやすい優しさ、たとえば、言葉での肯定・抱擁・慰めなど、そういったものにうつつを抜かすから、変に勘違いしてしまう
敬愛する倉橋ヨエコが感謝的生活で歌っていたように、ありがとうを忘れた人間は一人では生きられないのである
私のような人間は常に、細やかな優しさにも気を使い、感謝をすべきだ
つまらない話しかしないのに、わざわざ時間を割いて、私に会ってくれる友人、使えないでくのぼうなのに、雇って給与を与えてくれる店長と会社、産み損のごみにたくさんお金を出してくれる親、もっと周りに当たり前に存在する優しさに目を向けて、頭を下げなさい
そうしたら、目に見える優しさなんて、嘘にしか思えなくなるはず
ところで、優しさと哀れみの境界線は、どのあたりに存在すると思う
三.
ブログを書くにあたって私のホーム・ツイッターで共有しないのは、ツイッターを経由すると、どうしても見られるということを多方面で意識しまくった文章になって、ツイッターと大差なくなってしまうから
この人に見られたい・こいつらにどう思われたいが前面に出まくった文章がツイッターなら、こちらの文章は自己との対話にしたい
でも、今のところ、7割はツイッターを意識した文章になっています、病気?