がんばってかくぞ日記

優しさは遅効性の毒、という言葉を思いついた自分を抱きしめてやりたい。まさにそう、二度目の恋をした人間と出会ってから一年が経ち、明後日で記録的な二日酔いと悪がらみをしたセカンドロイヤルレコーズの周年パーティから一年が経つ。年月はとても早いが、私のなかの時計は止まったままで、夏以来音信不通の彼女の姿をまだすぐ思い出すことが出来る。ずっとずっと自分で自分の機嫌を取って生きてきたせいで、人から優しくされることへの耐性がまったくついておらず、春の香りや湿度の高い気候を肌で感じるだけで体調が悪くなる。去年は一年通してそういった感情に支配されることが多かった。きっと今年一年はその後遺症に苦しんで過ごすことになりそうだと思った。私は基本的に終わったことしか振り返れない。過去はもう変化の仕様がないから、事実の軌跡としてとらえることが安易だからだ。フォルダから消せない写真やバックアップを取ったメッセージのやりとりなど、今現在私が自発的に起こしている感情に基づく行動は、目をつぶればなかったことにできる。気持ちのバグ、脳のバグとして終わらせれば恥ずかしくなくて済む、私自身が巻き起こしたリビドーと自覚せずに済む。逃避ほど楽なものはない。この前、とてもとても大切な友達が錯乱して涙を流しながら悲痛な独白をする現場に立ち会った。私はその時間がとても尊いものに思えた。お世辞にも友達が多いと言えない彼女が、素を完璧に晒すことが珍しい彼女が、私に見せた泣き顔、すこしうれしいと思ってしまった。とても弱くて、触れる前から壊れているような部分を、垣間見た、この気恥ずかしさのような、うれしさのような、悲しさのようなもの。彼女の独白を聞きながら私はただただ泣きながら抱きしめることしかできなかった。二度目の恋をした彼女も、バグと言い聞かせている彼も、私のために泣いてくれたことはなかった。私のために泣いてくれた彼女は、私のことは好きにならない。私も彼女は好きにならない。それでいいのだ。私の好きな人たちにやさしい世界になりますように。

がんばってかくぞ日記

今、好きな友達が全員、鬱。好きな友達のより好きな友達たちはなにかしらの精神疾患を患っていて、誰か一人は必ず精神的な不調に苦しんでいるのだけど、こんなにも多く、といっても片手で数えられるほどなんだけど、気持ちを病んでいるのは初めて見るかもしれない。一人は悲しみを抑えきれずずっと泣いている。一人は連絡がつかない、交流ができない。一人は寂しさを癒すためにスカイプのIDを増やしている。こんな中で一人だけ健康な私がとても浮いている。どうせならみんなと一緒に堕ちれればいいのにと思うが、そう簡単に精神を壊したり、立ち直らせたりすることが出来れば、それはもう管理可能という意味で健康体なのかもしれない。こうやって手を広げたときに触れあうほどの距離感にいる友達が深い悲しみに陥っているとき、なにもできない苦しみがいまだある。昨日の記事でも書いたけど、こういったときになにもできないのはとても悲しい。いつもみたいにニコニコ笑っているみんなの姿がいち早く見たいと思う。と同時に、私自身の世界の狭さみたいなものも実感したりする。どう考えても、手を広げた範囲に触れあう友達が、こんなに少ないのは危ない。小さい世界は心地いいけど、みんなが沈んでしまったとき、私もそれにつられて苦しくなってしまうことが多い。この人がこんなに傾いているとき、まっすぐに修正できない私の無力さや、私だけ楽観的であること、この苦しみを少しも私の力では解消できないこと、すべて私のエゴでしかないけど、そういった理由でなんの関係もない私までつらくなってしまうことが、本当に多い。それはひとえに交友網の狭さのせいで、見えている世界の狭さでもある。見えている世界の範囲が狭いから、その世界が暗くなった時、私の上の空だけ明るいことに不自然さを覚えたり、天気をどうにかできない無力さを思い知ったり、するのだ。しかし、空の彼方が明るいことに気づいたとき、周囲の暗い天気を無視して、そこに駆けていくことが私にできるだろうか。できないからこそ今こうしてだれも見ていない記事を書いているのだ。だからといって、私だけ落ち込んでいるときに周囲が大層に気をかけるかというと、そうではない。気持ちの重さ問題、そのつり合い問題。去年はどんなことで悩んでいたか思い返してみた。優しくしてくれた人を好きになりかけていたりしていた。何も進歩していない。あと5日で私は20歳になる。年月が経っても、経験が伴わなければ変化は訪れない。経験に身を委ねる勇気がなければ経験は伴わない。結局は私自身の努力不足にすべてが集約される。周囲の人々と同じくらい私は私自身を軽視していた、しかし、周囲が私を軽視するなかで、自己肯定感を上げるなんてことは、夢のまた夢である。周囲の人間の体調は、周囲の人間の体調、私には関係ないと、ちゃんと理解するために必要なものはなんだと思いますか。私は、季節のせいにすることだと思いました。私も愛してるから、愛してほしいと望むのはわがままでしょうか。

2019年3月13日

当たり前のように人形には意思がなく、煙草には意思がない。だからこそ依存しやすいのかなと思いつつ口に咥えた煙草に火をつけるが、私が人形なら、私が煙草なら、私に依存されるのは嫌。前からうすうす気づいていたが、感情があまりにも重すぎる。明確に順位付けされた好感度とそれに比例する“重さ”の重責に、そして日に日に増すそれに、私が耐えられなくなってきた。恋愛と友情が地続き、とか言ってごまかしているが、絶対にそんなことはない。私は自分がそうでありたいことを自己暗示のように言い続けるくせがある。自己暗示と気づきながらするそれはもはや効力を持たない呪文であり、言い続けるだけむなしくなるだけだとわかっていながらやめられない。「私はこう思っている」というポーズを取る快感、考えずに許される逃避。逃げた先は必ず行き止まりであるが、スタンスはより明確であるほうがいい。求められていないピエロをやり続ける行為に一体だれが得をするのか。私のためにやっていることが、結局はポーズに取りつかれた道化的行為であることに、なぜ気づきながらやめられないのか。疲れた。他人に向けられる感情が重苦しいことになぜ自分自身が苦しんでいるのかと思っていたが、冒頭にすべて表れていた。私は負のメタ認知が激しすぎる。もうこれは絶対に治らない。誰からも愛されないし、本当に誰かを愛すこともできていない。私がその“誰か”なら、私から愛されるのは嫌だから。結局は自分が自分を好きでいれないことの裏返しなんだと思った。社会も境遇も悪くない、そこに逆らえなかった私自身の弱さや卑屈さのとげがすべて返しとなって刺さり、身動きが取れなくなっているだけなのだ。もう何かに責任を負わせて攻撃するのはやめよう。

 

人をうまく慰められない。大好きな人たちが悲しんでいるのは、悲しい。大好きな人たちは私の中で正しい人たちであるから、そんな正しい人たちが、誤った人たちに苦しめられているのは、悲しい。なにもできないこの状況も、とても悔しい。でも、こんな私が大好きな人たちのためになにかできると画策している状況がなんとも傲慢で許せない。私ごときの人間が誰かの、それも、私の尊敬する人たちの役に少しでも立てると考えているこの、つらの皮の厚さ、ふざけるなとさえ思う。しかし、私が尊敬する友達は、私が悲しんでいるとき必ず正解を伝える。正解と、その状況にあった慰めを賜る。沈みゆく私に伸びる手、暗闇に差し込む朝焼け、私の友達はもはや、そういったもの。それは私が彼・彼女らを愛しているからであり、愛していなければこの現象は起きない。なんの思い入れもない人物が同じ言葉を私に与えたとき、同じように感動できるかというと、必ずそうではない。好きだから、うれしい。好きだから、正解。とても偏っているが、これが私なりの答えです。私が欲しいのはうまく慰められた実感なんかじゃなくて、私の言葉で立ち直ってくれるような信頼関係、友愛関係なのかもしれない。私が「人をうまく慰められない」と考える根源も、結局は愛されていないという実感に基づく、プラスアルファだ。なんて醜いエゴなんだ!嫌になった。私はみんなの好きな人になれないんだね、こんな人間が身近にいてごめんね。でも好きな人に好きって言われたいだけでなんでこんな、どうやって身を振ればいいのかわかんない、もう疲れた。泣きそうになってきたから終わります。おやすみ。

noteに載せたもの

挫・人間の大事な大事な1日3回公演、絶対に俺なりの可愛い格好で行くぞ…と気合を込め、京都から露天商のようなパックパックにロリータ服とメイド服とパニエと赤いキャップとぼろのバットとダブルスキップサンドetcをぶち込みJRの快速で10時間かけて東京に出向いたら、鬼のフリフリを着ているのは私だけだった。このような空回り方、いままでもたくさんしてきたし、これからもたくさんしていくのだろうなと思った。そんな私が今のところかなり大好きです。この導入から察しはつくと思いますが、この記事は私の話しかしません、そんな私が今のところかなり大好きだから…すみません…いとしい人よ…。

挫・人間の花びら三回転、本当に本当に、良いライブだった。あまりにもよいライブだったし、人間ってこんなに泣くんだってくらい泣いてしまった。

思えば前回の記事から一年半が経っていた。一年半の間にいろいろあった。音楽の趣味・BLの趣味・リョナラーという奇跡的な共通点がある女の子を好きになり、告白などをするも「重すぎる」「自分を好きになられるのは気持ち悪い」「尊敬できない相手に特別な感情を抱かれたくない」と言われた挙句音信不通になったり、音信不通になった同時期に仲良くなり始めた友人があまりにも優しすぎて好きになりかけその旨を本人にも伝えるが「君はそういうのじゃない」とフラれたり、その一か月後にご飯に行った女に「実はその子と付き合っている」と最悪の告白をされて錯乱し社会性と破滅願望が同時に出た挙句、なぜか泣き出した女を延々慰めながら手に根性焼きをしたあとそのまま女の家に泊まったり、一周して滅茶苦茶躁になってその勢いのままコンセプトキャバクラで働きだして下から三番目の成績をたたき出して完全なお荷物になったり、本当にいろいろあった。インターネットにこういうことを子細に書くのはよくない気がするが、露悪的でないとすっきりしないんです、こうやって友達の枠がどんどん小さくなっていっています。ブラッシュアップと呼んでいます。その都度その都度わたしは6年前にインターネットで知り合った女版ホモソの友人や挫・人間の音楽に救われていて、前述の女の家に向かう最中、女をイヤホンで遮って恋の奴隷のPVを爆音で見た。私が都営新宿線を止めずに済んだのは、一重に挫・人間のおかげです。恋の奴隷が発表された時期も、好きになった女の子と音信不通になったばかりのときで、歌詞のひとつひとつが私のために書かれたような気がして仕方なく(そんなわけはけっしてないのだけれど)、大学に向かうバスのなかでしゃくりあげながら泣いていた。高校受験、不登校、高校中退、鬼の失恋ラッシュ、あり得ない躁、どんなときも挫・人間は私のそばにいて、私の気持ちを歌っていてくれるようだった。そんな挫・人間の一日三回ワンマン、ただの一ファンでありながらも、気合が入らないわけがなく、冒頭のような行動を取ったりもした。

大好きなちんちん大臣から始まった女子限定ライブ。メイド服の胸に開いた♡の枠からのぞくクジラックス作画の下川くんがなんとも誇らしく思えた。久々にちんちん大臣に謝罪が出来た喜びを胸に挫・人間のライブを楽しんだ。途中、下川くんが「男子―!」「女子―!」「それ以外―!」と叫び、それ以外、で返事をした人々に「俺、お前らのこと一生かけて守るよ…」と言っていた。性自認に関してはストレートであるので、私は意気揚々と女子で声を挙げたが、挫・人間のこういうところが本当に好きだな…としみじみ感じた。笑い声が起きていたが、全く笑う気になれなかった。私は処女膜のある側の人間なので、処女膜から声が出ていたことを祈るしかない。アンコールの下川最強伝説では、この日にサポートドラムをやめる菅大智(以下菅様)への除霊と、昨日失恋したばかりの観客に向けての除霊が行われた。挫・人間のために、下川くんのために、観客の女性のために除霊が行われるこのスピリチュアル的空間は、とても良いものだと思った。私も私に向けて、中学時代から6年間好きだった男とプラスアルファに向けての除霊を行った。ちょうど、ライブが始まる前に、老若男女公演に来るはずだった、前述のあまりにも優しすぎてすきになりかけた友人から「体調不良で行けない」という連絡が来たばかりだった。友人は翌日外出していた。正直で良いと思った。

新宿の立ち並ぶビルの陰で人知れず着替えを済ませ、ロリータ服のままマクドナルドに行き、外人に指をさされ、新大久保のギャルたちに笑われながら散歩などをして老若男女公演の開場を待った。その間に信頼できるオタクへのチケット譲渡も決まり、笑顔で30分前に到着したら誰もいなかった。仕方ないので好きなトラックメイカーのmixテープを聞きながら小踊りして待機をしていたら、どんどん人が集まってきた。パニエを穿いたでかすぎる直径のスカートはさすがに邪魔すぎたな…と2列目ほどに立ちながら考える。最前列付近はよく拝見するお顔の方が多く、にぎわっていたが、人と交流するのが極端に苦手かつ、特段好きなものを共有できない私は開演10分前までイヤホンで耳にふたをして無言でツイッターをしていた。私自身は美学と感じているこの行為もはたから見れば滅茶苦茶浮いているかわいそうなオタクだが、そんな尖りきった万年思春期オタクにも優しく接してくださる方もいて、聖母のようだな…と感じる。そんな聖母と隣同士でこの公演を見れたことはとても良かったと思う。

挫・人間が登場して一曲目、テクノ番長から始まった最終回転。タッタカタッタカタッタカタッタカ…というリズムとサンプリングされたライディーンのイントロが織りなすテクノ番長の来襲に、脳内のアドレナリンは止まることがなかった。周囲をチラリと見ると一心不乱に振り付けをするもの、しないもの、様々な人たちがいて、それもまたよかった。そこから「人を信じたらよくないんです」と叫ぶよくないんです、「学校もやめてもっと抱きしめて幸せになるの」とキャワいく歌うおにいちゃんだぁいすき、「騙されたなら品がねぇ」と歌う品がねぇ萎えに次々と…っておい!!!!!

おい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!1!!!!!!!!!!11111挫・人間、私の近況が見えているのか!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!11?????????????????????????????

いきなり大声を出してしまった。

しかし本当に誇張抜きにそう思った。というか、品がねぇ萎えの「優しいやつはヤバい性癖を持っている~騙されたなら 品がねぇ」の一連の歌詞が私はとんでもなく大好きで(なぜなら本当にそうだから)、気づいたらメチャクチャ泣いていた。

そこからは天使と人工衛星、多重星、ハヤオ、タマミちゃん(!!!)と続き、私の涙腺はもうボロボロ、フリフリのロリータと汗や涙でぐちゃぐちゃのテクスチャーが共存するクリーチャーを新宿の地下に爆誕させていた。言わずもがな最高のラブソングである天使と人工衛星で泣き、甘えることを拒否られて信頼できる人間にすら構えてしまうような私に多重星の「引くほど甘えたかったよ できない」の歌詞がさらに追い打ちをかけ、まさかのハヤオ、タマミちゃんの連鎖にもうただひたすら嗚咽をあげて泣くのみの人間になってしまった。意味がわかると思えないから、理解しなくていいし、大好きなあなたをもっと悲しませたいだけなんです、私も。でも引くほど甘えたかったし、生きていくのならあなたのためって言ってみたい。片思いも実らず、片思いから学んで人に気持ちを伝えたらメチャクチャなことを言われたり、ギリギリの面で社会性と破滅願望が全部出てよくわからなくなったり、もう恋愛が本当にできなくなってしまった私は、そもそもリビドーがなにかわからないから、果てに性交渉も見えない。そのせいで1を伝えて100を理解してくれる女版ホモソの友人への執着がひどい。他人の恋愛を無差別に見ながら「自分には絶対にできないこと」「純粋に気持ちの悪いリビドーの絡むこと」という嫌悪感を肴に夜通し泣いたりしている。最低な気持ちになってさめざめ泣くだけの生産性のない行為はなかなか気持ちいいものである。挫・人間に私の近況は絶対見えてないし、私のことなんて絶対に知らないけど、なぜだかいつもなにもかも見透かされているし、いつだって私の辛さ・かなしさ・寂しさ・嫉妬・重さなどをぎゅっとして離さない。挫・人間が挫・人間でいてくれる限り、絶対についていきたいし、これからもバンドを続けていくと彼らが言うたび、私の延命治療は施される。

アンコールで、菅様への言及があった。菅様が脱退するのは本当に本当に悲しい。年長者でありながら、サポートメンバーでありながら、メタモるではスティックの代わりにキンブレを振りかざし、人一倍キレの良いダンスを見せる菅様。下川くんと夏目さんの掛け合いを神妙な面持ちで聞く菅様。何度も聞いたであろうH&Mの話をしっかりとうなずきながら聞く菅様、アベさんとアイコンタクトをしながらリズム隊の圧倒的なスキルを見せつける菅様…。そして何より、卓越したドラミングで挫・人間の音楽的な土台を完璧に築き上げていた菅様がいなくなってしまうのは、隅っコとしても大きい喪失だ。今ですらまったく実感はないし、サポートドラムと言えど、いつか本加入して、変わらずステージの一番後ろから見守ってくれるのではないかとすら思っていた。「生きていればいつか会えますよ」と語る菅様の言葉にまた泣いてしまった。生きていればいつか会える。人生における別れの悲しさに対する、唯一の薬のような言葉だ。いつかまた菅様が美しいロングヘアを振り乱し演奏する姿を見に行こう。私も菅様も、まだ生きている。とても尊いことである。

そんなこんなで泣いたまま見る「笑いあうために」は、もはや私の涙を促進するエネルギーになるばかりであった。身体全体が感情になったのか!?と思うほど、五感全てがよりあかるく私に降り注いでくる。「最後の曲です!」とのアナウンスもあり、会場全体でコーラスをした後、幸せな雰囲気のままメンバーも楽器を下ろして解散…と思いきや、爆音のギターやひずんだベース、暴れるドラムが鳴り響く、おいちょっとまて、この曲はまさか……

「もしも私にお金があったら、すぐにあなたを孕ませたでしょう」
「もしも私が神様だったら、君も僕を愛すでしょう」

助けてくれ、とさえ思った。一転して暴力的なパンクサウンド、押し寄せる熱気に、過呼吸になりながら泣いた。この曲と共にどれだけ辛い夜を過ごしたか、私はもはや数えてすらいない。とどめを刺されたようだった。あまりにも効きすぎたのだ。笑いあうために で、「プレイステーションをやってく夢は叶わない」と初めて聞いた時、私は一種の寂しさのようなものも覚えた。そうか、もうあの頃の下川くんはいないのか…と。苺苺苺苺苺のときの下川くん自身へのアンサーソングのような気もして、ひとりでに悲しくなったりもした。変わりゆくことは世の常だね、正解はまだわからないね。でもそれはただの杞憂だったと一瞬で感じた。あの頃の下川くんは、まだ下川くんのなかに生きている、ような気がした。その答えは下川くんにしかわからないと思うけど、「死ね」「消えろ」と叫ぶ下川くんが、笑いあうためにで楽しげに歌うその姿と同じくらい美しかったのだ。あの瞬間はずっと私の脳に、死ぬまで、残っているだろう。

そのあと会場内で合流した信頼できるオタクに励まされ泣き止んだ私は、キャッチを横目に新宿の中華料理屋へ行き、0時近くまで早口で喋りながら料理をつまんだ。ライブの感想はそこそこに置かれた身の辛さについてずっと話していた。さっき散々泣いたけど、やっぱり恋人いらねぇな、と思った。嘘だよカス、期待しないで…。

また挫・人間の話をしようとして自分の話をしてしまった。ここの記事のなかに出てきた方、もしこの記事読んだらぜひ、怒ってください、対応などをします…。

みんないつもありがとうございます

ストロングゼロを飲んでいる。去年の三月にばかみたいな飲み方をしたときに比べたら要領をわきまえた飲み方ができるようになったと思う。飲んでも人格が変わらない自信があったけど、実際は頭に浮かんでることを口から放出する弁が緩くなるので変わっているのだと思う。唐突だけど私はとても人に対する感情が重くて怖い。交友関係を把握していないと気が済まない。どこにいったとか、今誰といるとか、把握していないと物悲しい。いつからこんななったんだろうと記憶を遡ったら、そもそも小学生の時は友達がほぼいないに等しくて毎日図書室に居ていた。中学の時に仲良くなった友達だな。その子に今の状況の三分の一くらいの付き合い方していたと思う。その時から「怖いわw」みたいなこと言われてた記憶がある。なんでも一番じゃないと気が済まないのかもしれない。気が済まないというよりは、私は一番なのになんであなたは私が一番じゃないの?という感情に近い。当たりまえのようにあなたは私のものではないのはわかっているけど、気持ちでは理解できない。いっそ今まで好きな人が近くに居なければこんなことにならなかったんじゃないかと思う。恋愛感情として好きな人にレスポンスをもらう嬉しさを、かまってもらえる嬉しさを半端に知ってしまったからこんなに苦しいのか。薬物中毒者と一緒だ。ゲートウェイドラッグとしての、ぬくもり。ぬくもりってなんなんだ、たかが人肌のくせに。人肌ならわたしにもあるんだよ、私だって人なんだよ、なめるなよ、くそが。絶対に許したくないことがたくさん増えた。好きだったひとに縁を切られたり、とてもきもちがつらいときにとてもきもちがつらくなることが重なったり、いまだに肌をもってしての慰めにとらわれていたりさんざんです。結局友情は性欲に勝てないんですか、わたしもだれか好きな人が出来たらそれを優先しちゃうんですか、もう好きな人を好きでいて報われた経験がないから恋愛に興味がなくなっちゃったけど、ずっとずっと淋しい。どうしたらいいんですか。そもそも、性的なことに興味がない時点で、私のなかで恋も愛も友情も絆も全部紙一重ってことがわかった。友情と恋愛の軸が一緒っぽい。友情である中でどういった見方をするか、らしい。そもそも、こういう、まいにちまいにちを淋しさとともになんとか消化している人間に肌を以ての慰めはよくない、そういうことをわたしにやっていいひとはわたしと一緒に地獄まで行ける人だけだよ、ふざけるんじゃないよ、勝手に植え付けといて各位勝手に育ててくださいなんてそんなむごいことがあるか、わたしに触るなら誓約書書かせるからな、もうやだ、こんなこと言いたくないんだよ、そんなことくらいでずっと悲しみたくない、泣いてるときに抱きしめて慰めてくれた経験にいつまでもいつまでもとらわれて死んでいく、としをとっていくね。みんななんでそんなまともに息をできますか。わたしはまいにち一生懸命です。バスを車窓を眺めながら泣いたり泣かなかったりです。特に熱中できることがないからそういった無駄な思い出にずっと首を絞められて生きてて、悲しくなったらいまだにキリンジを聞きながらぬいぐるみを抱きしめたり、自分の頬を自分の右手で触ったり、一人で手をつないだりして眠っています、あああああああああああああああバーーーーーーーーーーーーーーーカ、なんだ?なんなんだ、セックス、ましてやオナニーすら怖くてできない人間が、能弁を垂れるな、ふざkるな、生殖だけがすべてか、もうやだ、一緒にご飯作ったりしたい、台所に一緒に立ちたい、悲しくなったら慰められたい、ときどきそとに出たい、作ってくれたご飯の味が鮮明にわかる、コンタクトの洗浄液のボトルが彼n女の家にまだある。ふざけるな、死ね、助けてくれ、ぜったいみんな彼女みたいにならないでおねがいだから、紙一重なんdよ殆ど、もうやだ、なんなんだよボケ、酔ったkら終わります。こんな人間だけど愛してくださいわたしは10000000000倍あいすから、好きでいちゃダメかみんなのこと、ころしてくれ、もうだめだ、みんないつもありがとうございます。

 

よくみたら8月くらいまでなんかかいてたんだね、なにががんばってかくぞ日記だ、つぎの更新半年以上あとじゃねーか、バーカ、いろいろあったよ、半年で11!!!!でもすきなひとにはすきっていわれないしからだの傷はふえたし最悪だよな、

がんばってかくぞ日記2

一.

私は誰にでもできる仕事をしている、誰にでもできない仕事というのは数多くあり、それこそ、昨日話していた日々の積み重ねや鍛錬が必要になるものが主だと思っている

飲食店のアルバイトは忙しくなると本当に尊厳が削がれる、誰にでもできる仕事をするしかない、ロボットの代用品ということがとてもわかる

素早い動作と的確な判断が最重要されるホールスタッフで、よくこんな、ぎりぎり健常者のふちに立っている人間が主力となって働いてるよな

ぎりぎり健常者のふちに立っていることが武器となる仕事に就けない、誰にでもできる仕事をするしかない、凡庸人間ということをもっと自覚しろ

他のことにリソースを割く、の、他のこと、がないから、私は誰にでも出来る仕事をして安銭を稼ぐのみ、凡庸な人間に残された道はロボになることのみ

何も出来ない人間は思念を捨てろ

完璧な慣れと惰性のみで労働をしているという点において、接客業もレーン作業も全く同じだ

私は常に誇りが欲しいと思っている

その誇りが、私自身のアイデンティティに帰属する日はいつ来るのだろうか、そしてその日に、私はちゃんと劣等感から解放されるのだろうか

 

二.

優しくされることに慣れていないと常に言い続け、そのせいで嫌な思い出もたくさんできてしまったが、それって、目に見える優しさのみを受け取っているからじゃないのか

わかりやすい優しさ、たとえば、言葉での肯定・抱擁・慰めなど、そういったものにうつつを抜かすから、変に勘違いしてしまう

敬愛する倉橋ヨエコが感謝的生活で歌っていたように、ありがとうを忘れた人間は一人では生きられないのである

私のような人間は常に、細やかな優しさにも気を使い、感謝をすべきだ

つまらない話しかしないのに、わざわざ時間を割いて、私に会ってくれる友人、使えないでくのぼうなのに、雇って給与を与えてくれる店長と会社、産み損のごみにたくさんお金を出してくれる親、もっと周りに当たり前に存在する優しさに目を向けて、頭を下げなさい

そうしたら、目に見える優しさなんて、嘘にしか思えなくなるはず

ところで、優しさと哀れみの境界線は、どのあたりに存在すると思う

 

三.

ブログを書くにあたって私のホーム・ツイッターで共有しないのは、ツイッターを経由すると、どうしても見られるということを多方面で意識しまくった文章になって、ツイッターと大差なくなってしまうから

この人に見られたい・こいつらにどう思われたいが前面に出まくった文章がツイッターなら、こちらの文章は自己との対話にしたい

でも、今のところ、7割はツイッターを意識した文章になっています、病気?

がんばってかくぞ日記

一.

劣等感が強い理由のひとつ、「継続することを尊いことと思い込んでいる」

幼稚園の体操教室は年長でやめ、小学一年生で始めたエレクトーン教室は半年でやめ、進研ゼミも二年もたたずやめ、高校で入った部活は一年でやめ、中学から行っていた塾は大学受験が盛んになる高校三年生のあたまにやめ、そして高校をやめ…

唯一続いていた(る)のは中学三年間やっていた吹奏楽部と今三年目になる飲食店のバイトのみ、完全に、甘え、私が100000悪い話だが、どうしても続けられない、故に、継続により才能や技量を努力で手にしたひとに向く感情が、どんどんひねくれたものになる

私には何もない、なにも誇れるものがない、機会は十分にあったのに私の怠惰ゆえにそれらすべてをずっと手放してきた、そんな人間に価値はないんじゃないかと、常に視界にちらつく声ではあるが、吹き出しがより大きく見える

今日、中学からの友達が、わたしのやめた吹奏楽部の定期演奏会でソロパートを吹いている動画を見てしまった

私が部活をやめ、高校をやめ、惰眠を貪るなか、日々音楽に向き合い、その成果を堂々と披露する彼女は間違いなくわたしより偉大で価値のある人間に見えた

そして、なんでこんな素晴らしい人間が、こんなにもつまらなく、恥ずかしく、なにもできない人間と一緒にいてくれるんだろうと思った

中学からの友達にそんな気持ちを託したくなかった

 

二.

社会性が発達しすぎてお酒を飲んでも全く酔えなくなった

もともと神経に効きづらかったアルコールがもう、何も、まったく、効かない

酒が、ただ飲むと目が開きにくくなり、胃腸が荒れる液体になった

しかも、最近は社会性が発達しすぎているあまり、「お酒を飲んでいる以上、酔っていないと思われると場と人に申し訳ないので、無理やり酔っているふりをしよう」と考え、周囲に配慮した大声で必死に考えたジョークを飛ばす始末である、中学のときにやっていたことと全く変わらない

中学時代、私の身体とこころをはったギャグを見て笑っていた彼・彼女らと、クラブで出会う友達が時々重なって見える

友達には私なりのリスペクトをもって接していたつもりが、帰属するコミュニティを意識するようになった途端に、ちゃちな脳で作り出したカーストを意識して行動するようになってしまった

そして困ったことに、長年のオタク・ライフにより、対人への適度な倫理と道徳が備わっているため、あいつらの目には私の自尊心の削り節が輝いて見えない

19年間続けてきたコミュニケーションが通じないのに、19年間培ってきた偏った考えは治らない、20歳まであと半年とちょっと、このままでいいのか