2019年3月13日

当たり前のように人形には意思がなく、煙草には意思がない。だからこそ依存しやすいのかなと思いつつ口に咥えた煙草に火をつけるが、私が人形なら、私が煙草なら、私に依存されるのは嫌。前からうすうす気づいていたが、感情があまりにも重すぎる。明確に順位付けされた好感度とそれに比例する“重さ”の重責に、そして日に日に増すそれに、私が耐えられなくなってきた。恋愛と友情が地続き、とか言ってごまかしているが、絶対にそんなことはない。私は自分がそうでありたいことを自己暗示のように言い続けるくせがある。自己暗示と気づきながらするそれはもはや効力を持たない呪文であり、言い続けるだけむなしくなるだけだとわかっていながらやめられない。「私はこう思っている」というポーズを取る快感、考えずに許される逃避。逃げた先は必ず行き止まりであるが、スタンスはより明確であるほうがいい。求められていないピエロをやり続ける行為に一体だれが得をするのか。私のためにやっていることが、結局はポーズに取りつかれた道化的行為であることに、なぜ気づきながらやめられないのか。疲れた。他人に向けられる感情が重苦しいことになぜ自分自身が苦しんでいるのかと思っていたが、冒頭にすべて表れていた。私は負のメタ認知が激しすぎる。もうこれは絶対に治らない。誰からも愛されないし、本当に誰かを愛すこともできていない。私がその“誰か”なら、私から愛されるのは嫌だから。結局は自分が自分を好きでいれないことの裏返しなんだと思った。社会も境遇も悪くない、そこに逆らえなかった私自身の弱さや卑屈さのとげがすべて返しとなって刺さり、身動きが取れなくなっているだけなのだ。もう何かに責任を負わせて攻撃するのはやめよう。

 

人をうまく慰められない。大好きな人たちが悲しんでいるのは、悲しい。大好きな人たちは私の中で正しい人たちであるから、そんな正しい人たちが、誤った人たちに苦しめられているのは、悲しい。なにもできないこの状況も、とても悔しい。でも、こんな私が大好きな人たちのためになにかできると画策している状況がなんとも傲慢で許せない。私ごときの人間が誰かの、それも、私の尊敬する人たちの役に少しでも立てると考えているこの、つらの皮の厚さ、ふざけるなとさえ思う。しかし、私が尊敬する友達は、私が悲しんでいるとき必ず正解を伝える。正解と、その状況にあった慰めを賜る。沈みゆく私に伸びる手、暗闇に差し込む朝焼け、私の友達はもはや、そういったもの。それは私が彼・彼女らを愛しているからであり、愛していなければこの現象は起きない。なんの思い入れもない人物が同じ言葉を私に与えたとき、同じように感動できるかというと、必ずそうではない。好きだから、うれしい。好きだから、正解。とても偏っているが、これが私なりの答えです。私が欲しいのはうまく慰められた実感なんかじゃなくて、私の言葉で立ち直ってくれるような信頼関係、友愛関係なのかもしれない。私が「人をうまく慰められない」と考える根源も、結局は愛されていないという実感に基づく、プラスアルファだ。なんて醜いエゴなんだ!嫌になった。私はみんなの好きな人になれないんだね、こんな人間が身近にいてごめんね。でも好きな人に好きって言われたいだけでなんでこんな、どうやって身を振ればいいのかわかんない、もう疲れた。泣きそうになってきたから終わります。おやすみ。