がんばってかくぞ日記

今、好きな友達が全員、鬱。好きな友達のより好きな友達たちはなにかしらの精神疾患を患っていて、誰か一人は必ず精神的な不調に苦しんでいるのだけど、こんなにも多く、といっても片手で数えられるほどなんだけど、気持ちを病んでいるのは初めて見るかもしれない。一人は悲しみを抑えきれずずっと泣いている。一人は連絡がつかない、交流ができない。一人は寂しさを癒すためにスカイプのIDを増やしている。こんな中で一人だけ健康な私がとても浮いている。どうせならみんなと一緒に堕ちれればいいのにと思うが、そう簡単に精神を壊したり、立ち直らせたりすることが出来れば、それはもう管理可能という意味で健康体なのかもしれない。こうやって手を広げたときに触れあうほどの距離感にいる友達が深い悲しみに陥っているとき、なにもできない苦しみがいまだある。昨日の記事でも書いたけど、こういったときになにもできないのはとても悲しい。いつもみたいにニコニコ笑っているみんなの姿がいち早く見たいと思う。と同時に、私自身の世界の狭さみたいなものも実感したりする。どう考えても、手を広げた範囲に触れあう友達が、こんなに少ないのは危ない。小さい世界は心地いいけど、みんなが沈んでしまったとき、私もそれにつられて苦しくなってしまうことが多い。この人がこんなに傾いているとき、まっすぐに修正できない私の無力さや、私だけ楽観的であること、この苦しみを少しも私の力では解消できないこと、すべて私のエゴでしかないけど、そういった理由でなんの関係もない私までつらくなってしまうことが、本当に多い。それはひとえに交友網の狭さのせいで、見えている世界の狭さでもある。見えている世界の範囲が狭いから、その世界が暗くなった時、私の上の空だけ明るいことに不自然さを覚えたり、天気をどうにかできない無力さを思い知ったり、するのだ。しかし、空の彼方が明るいことに気づいたとき、周囲の暗い天気を無視して、そこに駆けていくことが私にできるだろうか。できないからこそ今こうしてだれも見ていない記事を書いているのだ。だからといって、私だけ落ち込んでいるときに周囲が大層に気をかけるかというと、そうではない。気持ちの重さ問題、そのつり合い問題。去年はどんなことで悩んでいたか思い返してみた。優しくしてくれた人を好きになりかけていたりしていた。何も進歩していない。あと5日で私は20歳になる。年月が経っても、経験が伴わなければ変化は訪れない。経験に身を委ねる勇気がなければ経験は伴わない。結局は私自身の努力不足にすべてが集約される。周囲の人々と同じくらい私は私自身を軽視していた、しかし、周囲が私を軽視するなかで、自己肯定感を上げるなんてことは、夢のまた夢である。周囲の人間の体調は、周囲の人間の体調、私には関係ないと、ちゃんと理解するために必要なものはなんだと思いますか。私は、季節のせいにすることだと思いました。私も愛してるから、愛してほしいと望むのはわがままでしょうか。